だが待ってほしい早計ではないか通信(フリーライター三品純)

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ゆとり左翼とネット右翼 同種説 彼らはどこから来てどこに向かうか①

はじめに

「お前は顔をださないから卑怯だ」と
言われたことがあります。
そこで最近はFBや雑誌でもなるべくプロフィール写真を
出すようにしたので嫌がらせでもなんでも
お好きなようにお使いください。


●実態を知らない左翼・右翼論

今、かつてないほど左翼・右翼論が隆盛です。
現状の左翼を見て左翼を論じるならば、それは「本物」に
失礼だし、ネット右翼というのも本当の「右翼」に失礼だと
思っています。
どうも机上の空論と願望、それから結論ありきの
論調のような気がしてなりません。
示現舎をやってよかったのはリアルな現場の声や不満が
いくつか聞けることでした。自分の経験則かもしれないけど
少し聞いてほしい話があります。


●思い出

自分の中にどうしようもないほどの左翼・リベラルアネルギーが
あって「同和と在日」問題に取り組む理由もそこにあった。
決して後付け論ではないことをお断りして、現状の左翼運動、
とりわけ脱原発運動についていくつか考えてみたい。

私は93年に法政大学に入学した。入学後、10日後くらいに
機動隊が正門付近に整然と並んでいたのを覚えている。
生でジュラルミンの盾を見たのも初めてだった。

サークル勧誘もセクト、ノンセクトのダミー団体がいくつか
声をかけてくれた。一見して世捨て人風情なのだが、確かに
話は刺激的で非常に興味深かった。例えばキャンパスが郊外に
移転した理由と80年代左翼運動などから、あるいは
シャーロック・ホームズから近親相姦を論じる。
こんな話も聞いた。場合によっては海外文学の原書から
論じる人もいた。驚愕だった。
こうした運動を彼らの一部は「学術文化創造」といった。
確かに学術と言えるだけのものがあった。
名前はよく覚えていない。確か「フロームZ」という
ミニコミ誌だった。当時、学生にとってフロームAという
アルバイト情報誌が必携の雑誌だった。
そのもじりだろう。

そこには公安警察に職質されたらなどのマニュアルから
実際の公安警察の顔写真などがあった。
19歳の自分には刺激的などという
レベルではなかった。
彼らは確かにとても”上から目線”で話し方もどこか
説教調だが、何しろ話が深いしためになる部分もあった。

深夜、友人らと学生会館で遊んでいた。当時は法政は事実上、
24時間開放だった。あるとき
「反革命だ」と怒鳴り声がした。

行ってみると血まみれの人が倒れていた。他セクトの襲撃だろうか
あるいは内ゲバなのか、わからない。どこからともなく
現れた胡散臭い人たちに介抱されけが人が運ばれていった。

ある一定の時期までは「唯物論者」を想起させる何かを持っていた。

しかし95年ぐらいだろうか。
左翼と自称するあるいはそうした志向のある人びとがどこか
変わった。
彼の口癖は
「東大生は学校の勉強はできるけど、人間的に頭が悪いし社会で
通用しない」
人間的に頭が悪いという意味が分からないし、東大生が
社会で通用しないという根拠が分からなかった。


「早稲田を目指した時点で在野精神がない」

これも分からなかった。要するに早稲田大学が権威化したと
言いたかったのだろう。しかしその割に
「あと3問正解していたら早稲田に受かっていた」
という。

ずいぶんムシのいい自己採点だな、と思った。
しかし面白いことにこうした主張をする人は二部生、つまり
夜間だった。それも苦学生というわけではない。
二浪、三浪というのもザラだった。

東京六大学の末端の大学に藁をもすがる思いで入ったのが
法政の夜間。ところがこの藁には間違っても
「六大学」というプレミアがあった。

このプレミアは一種の「麻薬」である。
挫折感の一方で、六大学というプレミアは
その肥大しきった自我と根拠無き自信とプライドを満たすに
十分であった。

ただ一方で
東大、早大を云々しながら結果、二部という現状。
ある意味では滑稽でもあり痛々しくもあった。
これは学歴偏見や差別とは別として。

そして彼らの怒りやもどかしさは日本、保守、自民党、政治家
という漠とした対象に向けられていった。
隣にある暴力には目をつぶるが、しかし壮大な「権力」という
ものに対しては雄弁だ。

しかしお説はごもっともだが、浪人して二部という現実。

さらにもう一つ、幸か不幸かこの時代には市民参加型政治という
学説や主張が隆盛となった。後に民主党政権を実現した
議員らの多くも、若手時代、
「市民」というキーワードに心酔しており、やがて
彼らは民主党を作っていくことになる。

確か96年のTBS『ニュース23』
にジャーナリスト・カレルヴァン・ウォルフレンが3夜連続で
出演し、同番組の筑紫哲也キャスターと時局を論じた。

彼の主張の骨子は「アカウンタビリティ」「情報公開」「市民参加」
だった。この「市民参加」というフレーズは

「セクトに入る勇気はないが、燃え上がるようなルサンチマンと自我を
反権力めいたもので昇華させたい」という層の自尊心を満たすには
十分であった。

ひょっとすると
当時の二部生からお叱りを受けるかもしれない。
「全てではない」と「偏見」だと。
ところが後に指摘をするが、現状、「オタクや貧乏人は保守化する」
という論調が一般論としてまかり通っている。
ところがこうした論調に対して
「全てではない」と「偏見」だと論考する社会学者らは
あまりお目にかからない。

自身らが忌み嫌う属性のものに対してはいかなる
独断と偏見と印象論も許される。ところが
自身らの好む属性に対しては「市民が変える」「市民の力」
あるいは「ネットの新潮流」となるのはどうしてだろう。

ともかく90年代の少なくとも非エリート大学生には
少なからず受験失敗型ルサンチマン的模倣左翼がいたことは
確かだ。

要するに現状、置かれた立場というのは全て社会や日本のという
システムのせいであると言いたげだ。

現在、あるアンチ自己責任論者に対して感じるもどかしさや疑問も
ここにある。つまり公の責任と自己の責任を完全に混同し
要するに猫も杓子も国のせいという論調に、昔感じた
耐え難い薄っぺらさがあった。


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[ 2014年03月01日 09:14 ] カテゴリ:プロ市民 | TB(0) | CM(0)
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