だが待ってほしい早計ではないか通信(フリーライター三品純)

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東京六大学野球血風録1「稲葉篤紀は優勝請負人なのか」

栗山監督に続いて5度宙に舞った日本ハム・稲葉は「僕が引退するみたいだからやめてって言ったんだけどね」と言いながら、笑みが止まらなかった。

 今季は4月28日の楽天戦(Kスタ宮城)で史上39人目の通算2000安打を達成。その後も通算1000打点、400二塁打、250本塁打など節目の記録をクリアしながらチームの勝利に貢献。北海道移転翌年の05年にヤクルトから移籍して以来、チームの顔として先頭に立って全力プレーを心がけてきたベテランは「2000安打して優勝、というのが理想だったから」と振り返る。

 ヤクルトで野村、若松、日本ハムでヒルマン、梨田に続いて栗山監督。仕えた5人すべての指揮官を胴上げした稲葉は「監督の言うことを聞いていれば勝てるという1年間だった。(監督には)もっともっともっと泣いてもらいますよ」と日本一も譲らない。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121003-00000071-spnannex-base



2000本安打を達成し、日ハム優勝の原動力になった稲葉篤紀外野手。
記事にある通り、指揮下にあった監督を全て優勝させたことも輝かしい実績を彩りました。

しかし大学時代から稲葉選手を見ていると、まさかここまで活躍されるとは思いもよりませんでしたし、
それに実はアマチュア時代「優勝」とはなかなか縁のなかった選手でした。

東京六大学にあって他校からは「飯田橋体育専門学校」(略して「言いたい放題」)、「振り向けば日大」
などと揶揄される法政大学にとって、「野球」とは六大学中で最も威勢とプライドを保てる
競技でした。ある意味、大学スポーツにおける花形競技は「ラグビー」だと思いますが、実はこの大学が
全国選手権の初優勝校ということはあまり知られておらず、もはや「古豪」という称号も聞かれなくなりました。
だからこそ野球に注がれる期待はより大きいものになりますが、この時期は本当に暗黒時代と言っても
いいでしょう。

私は93年入学でしたが、この年の大学新聞などの特集で、
昨年度は、法政史上初、六大学野球優勝を経験していない
卒業生を出した、と言われていました。
もちろんこの時代でもプロ野球選手は輩出していますが、こと優勝はとても縁遠い状況でした。
確かに上位には食い込むものの、全勝対決で優勝争いになると必ず負けるというのはこの時代の
パターンだったと思います。
その理由として一つには監督の力量も起因していたと思われます。山本泰監督、この方は球界のドンと呼ばれた
鶴岡一人氏の子息で稲葉選手が3年まで監督をしていた人ですが、お世辞にも采配が上手いとは思えませんでした。
突然、代打、そしてバントをさせるなど意味不明な指示などは、学生席から失笑が漏れたほど。
なにしろ93年の秋季リーグでは、確か39年ぶりに東大に勝ち点を許すという有様でした。
甲子園経験者を集めたセミプロ集団が、体育会とはいえ単位取得に容赦がない秀才集団に
負けたのだから、衝撃的な出来事です。

この年代の印象的な選手は、副島孔太(元ヤクルト)、真木将樹(元近鉄)
愛工大名電時代のイチローと同期の深谷篤、元横浜ベイスターズの鈴木尚典の弟、鈴木章仁などなど
多士済々。

プロには行かなかったけど好きだったのは、 大崎満雄さんと言うピッチャーで93年の春季リーグ、
対明大戦の熱投は今もOBの間で語り継がれています。あと「変わった打撃フォームの選手がいる」と
いうことで評判になった根鈴雄次(米独立リーグ)も印象に残っています。

さて稲葉選手はユニバーシアードの四番を務めるなど、有名な選手ではありましたが、
もう一つ凄さを感じませんでした。
なにしろ通算の本塁打が二けたに到達しておらず、当時、3番を打っていた萩谷之隆さんは
通算10本を記録しており、萩谷さんの方が上の印象でした。

稲葉さんの最終学年である、94年秋季リーグ。この年から監督がアマチュア野球の大御所、山中正竹氏に
代わり、多少復調の兆しが訪れました。そしてピッチャー真木の活躍もあって、最終戦の明治戦で
2連勝すれば優勝ということになったのです。
1戦目に勝って迎えた2戦目。確かピッチャーは現中日の川上憲伸だったと思います。
リーグ屈指の投手で、何度も法政の前に立ちふさがった川上。
法政は、萩谷の本塁打で先制するも逆転されてしまいます。1-2で迎えた8回、バッターは稲葉。
そして見事な流し打ちの2塁打。4番としての意地を見せた一打でした。

続く5番キャッチャーの和田が送りバントで代打、 伊藤大輔。
伊藤選手はとても勝負強い打撃で定評がありました。
この伊藤がレフト前ヒットで稲葉を返し、同点。試合は延長へ。
迎えた12回表、このまま引き分けでは優勝は逃すという場面で、内海という内野手が劇的な本塁打を放ちました。
そして3-2で明治を破りついに平成1年春以来の優勝を果たしたのです。

結局、全国大会である明治神宮野球では、一回戦で東亜大学という大学に2-0であっさり破れ
稲葉さんの大学での野球生活は終わりました。

プロで2千本安打を記録され、輝かしい球歴を持つ稲葉選手ですが、
私にとってはあの明治戦の2塁打こそが、かけがいのない一打として記憶に残っております。


次回、東京六大学野球血風録は
●早大応援団、丸刈り事件
●明治大学ジョディ―・ハーラーとはなんだったのか?
●立教大学、もう一人の四番・長島
こんなことを考えています。
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[ 2012年10月10日 22:28 ] カテゴリ:未分類 | TB(0) | CM(0)
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